輝きたい

必死になって輝くことが出来るのなら、俺だって必死になるだろう。しかし、そんな簡単なことではない。「輝いている」と人からの評価が必要だからだ。必死になっているのを俺が傍から見たら「あの人、必死だなぁ」と思うのだ。「あの人、輝いている!」そう思うことはないのだ。理論立てて、順序に沿っていくと、必死に頑張った結果→輝いた! ではなくて必死に頑張った結果→必死やんwww こんな感じやん。

自分と誰かを比較してみると、あっという間に気分は落ち込む。友達がいる人は特に同級生とかが良いんだけど、自分と比べて友達はかわいい奥さんをもらったとか、女子大生と付き合っているとか、そんな感じのことがもしあったらどう思う。つまるところ自分にはないことがあいつにはあるという事実。落ち込むよね。牛骨ラーメンにゆでたまごが二つ浮いているはずなのに、俺のは一つしか浮いてないんだよね。

言葉と行動で全て決まるわけではないが、人からの評価はそういった具体的なものにしか付随されない。家で一生懸命仕事の資料を作っているけど、会社では余裕っぽく過ごしている、そんな場合は大抵の人から「暇そうだね」と思われる。「やることないなら手伝ってよ!」とか少し悪意めいた気持ちで見られているかも知れない。良くないことだと思う。会社でやれなかったことを家に持ち帰ってやっているだけ、なんて思っていたのにそうじゃなかった。

話は輝くことに戻る。輝いているのは何か。心か、見た目か、人生か。今が最高だと転がっていく精神か。いろんな世界を見なさい。世界を見下ろすとこんなに世界は小さい。しかし、その中でもすごく小さいコミュニティの中で俺たちは生きていくしか、ほとんどの場合はない。それでも思うのは輝きたいと声に出してみたとき、俺の瞳は輝いていたんだよ。

そんなもっともっと小さな俺の瞳が輝いていたんだよ。

輝きたいと思うこと、これが重要。輝いている人は「輝きたい!」って言ってないかも知れないけどね。